ネギ式

適当に生きるおっさんのブログ

考察、懐古、回顧:原子力の平和利用

これは昔の話というか、原発の現状とはほとんど関係ないこと。そして例によってとりとめもなくはっきりした結論もない話である。

私の子供の頃によく「原子力の平和利用」ということが言われたのである。原発推進のスローガンと言ってもいい。子供の頃はこれを信じていて原発は必要だと思っていたものだ。

で、これに対する個人的な考察である。wikipediaで言うところの独自研究というやつだ。研究してないけど。

今思うと不思議なのだが「原子力の平和利用」はどうしても必要なことに思えたのである。単に原水爆を禁止すればいいだけなのに、そうではなくて、平和利用しなければならない、そういう必要性がある、という社会的な風潮があったように思える。

それを年を取った今になって振り返ってみると、これは神を鎮めるためではないかと思ったのである。原爆という荒ぶる神を目にした日本人が、この荒魂を鎮めて和魂にする必要性を感じた。「原子力の平和利用」によって、原爆という荒魂を和魂にするという宗教的な思想ではないかと思うのである。そのためには単に原水爆を禁止しただけでは十分ではないのだ。

こんなことを考えたのは、エンタメにおける神の位置について最近ちょっと考えていたからである。俺の勝手な日本神話の解釈だと、神というのは本来は荒ぶるものである。というのは、災害大国日本の自然災害の人格化が神だと思うからなのだ。そしてその荒ぶる神が宗教行為によって鎮められて、人を守る神になる。

だから、信仰が深まると神は大人しくなり、人々の信仰が薄れると神は本来の荒ぶる力を取り戻して祟りをなす。これは布教を第一として信者数を増やしていく侵略的な宗教とは対立する考え方である。信者数=神の力みたいなアニメを見た時に、日本の神はそうじゃないと思ったのだ。

この力のある荒ぶる神を力なき人々が大勢で必死になって鎮めているというイメージを私は気に入っている。力というものは、神の力でなくても、大きな権力ならそれは災いの元となるので、大勢で押さえ付けなければならない。そして押さえ付けることに失敗すると、一気に暴走してしまうのだ。

もっとも、現代社会においては、大衆の力というのもまた大きな力なので、これをどう抑制するかという問題はあるのだが。

今は、原発推進のスローガンは「平和利用」ではなく「安い」とか「安定電源」とかなんかそんなものに変わっているので、このネタは昔の話なんだけどね。