昔、現代日本からこの世界に転移してきたおたく男がいて、武蔵の国まで、心にまだ迷いを残しながらやってきた。そこである女の家に行って共寝をしたのであった。女の父親は他の男と女を結婚させようと考えていたので、これはけしからんと思った。
一方、女の母親は都から来た男が気に入ったのであった。おたくと言っても現代日本人なので、この世界のそれも田舎である武蔵の国の基準からすれば随分といい男だったからである。
父親は地元の人だが、母親は藤原姓の貴族の娘だった。そういう訳で娘を都から来た男と結婚させようと思ったのである。母親は貴族の娘なので当然和歌を詠むことが出来て、この婿にしようと思った男に歌を詠んで贈った。
住んでいるところがみよし野の里だったので、その地名を読み込んだ歌である。
みよし野のたのむの雁もひたぶるに君が方にぞ寄ると鳴くなる
みよし野の田んぼにいる雁が、(こちらで音を立てて追い立てると)鳴きながら貴方のいるそちらに寄って行くように、娘もひたすらあなたのことを頼りにして心を寄せていますよ。
これに男が返した歌は
わが方に寄ると鳴くなるみよし野のたのむの雁をいつか忘れむ
私に心を寄せて頼みにしているというみよし野に住む娘さんのことは、別れたら忘れてしまうだろうか、いや別れても忘れませんよ。
こうして母親と歌のやりとりをしてみると、本当なら娘と直接歌を交換したかったという気持ちが湧き上がってきた。母親は貴族だから和歌を作れるが、娘は気の利いた和歌が作れないのだろう。
今すぐではなくてもいつかは都に戻りたいという気持ちに男はなったのである。娘さんと結婚することは難しいですが、美しい思い出としてずっと忘れませんよ。