むかし、現代日本からこの世界にやって来た男がいた。貴族の地位を得たので冠を着ける初冠(ういかんむり)の儀式を行なった。それから、貴族の嗜みとして狩りの練習をするために平城京の近くの春日野に行った。
あなたのお仲間の女性(女はらから)が近くに住んでいると、世話になっている貴族から告げられていたので狩りのあとで行ってみた。
仲間とはなんだろうと、垣根の隙間から覗いて見ると、たいへん美しく垢抜けた女性であった。それもそのはず、この女性は現代日本から異世界に転移してきた女性だったのである。
そうだ、歌を贈るのだったと思ったが、何故か筆と硯はあるのに紙がないのであった。そこで着ていた服を破って、それに歌を書いた。しのぶずりという模様の服だったので、それにちなんだ歌を書いた。
かすが野の若紫のすり衣しのぶの乱れ限り知られず
この春日野の若々しい紫草のように美しいあなたの姿を、こっそり見てしまって、心の底に密かにしまっていた恋心が動かされることといったら限りありません。
これはもちろん有名な次の歌を元にしたものである
みちのくの忍もぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに
陸奥の名産であるしのぶもぢずりのように、心の奥に静かに忍んでいた私の心を、(しのぶもぢずりのように)乱れ初めさせて、恋に染めてしまったのは、他ならぬ貴方以外の誰でありましょうか。
そんな歌を贈ったこととは関係なく、女は同類の男が訪ねてくるという連絡を受けていたので、男を招き入れた。
「なってないわね。こんな歌では女を口説けませんよ。元歌のよいところが失われています」
手厳しい評価であった。チート能力で勝手に浮かんで来る歌なので、選んだり推敲したりする余地はないのだ。おそらくは、初冠という状況に能力が反応して、幼さの残っているような歌を選んだのだろう。
しかし手厳しいのは歌の評価だけではなかった。
「この世界の生活が長い私が、この世界に来たばかりのあなたに、いろいろと教えて差し上げます」
女がそう言って並べ立てるのは、いわゆるべからず集であった。
この世界は、現代日本ほど文明が進んでいないのだから、高望みしてはいけない。異性にしても、あばたがないだけでここでは美人なのですよ。そして毎日風呂に入るなんてことは自分にも相手にも期待できないのです。食べ物だって、おいしくないと思っても文句を言わずに食べなければなりませんよ。この世界では飢えている人の方が多いのです。食べ物があるだけで恵まれているのですよ。
長々と異世界べからず集を並べたてられて、かなり閉口したものだ。しかし、そのべからず集はとりもなおさず、女がやらかしてしまったことなのであろう。その結果として、姿形はこの世界で最高級の美女でありながら、春日野という以前ならともかく今ではさびれた地方でひとり侘びしく暮らすことになってしまったに違いない。
さらに女が付け加えるのは、どんなことがあってもこの世界の人を憎んだり恨んだりしてはいけないということだった。自分の意志で異世界転生したのだから、すべての責任は自分にあるのですよと。それは、まるで自分自身に言い聞かせているような言葉であった。
そう思えば、口うるさい言葉ではあったが、せっかくだから参考にしてこの世界で生きていく方針にしようと思うのであった。
でも、べからず集を並べられて、すっかり心が萎えてしまったので、最初の歌の意味も変わってしまった。
かすが野の若紫のすり衣しのぶの乱れ限り知られず
春日野に住んでいる姿だけは若紫の草のように美しい女性の厳しい言葉で、私の心はすっかりすり潰されて、耐え忍んで我慢しようという気持ちも乱れて小さくなり、何処にあるのか分からなくなってしまった。
それで、ベからず集の言葉だけをありがたく頂戴して、共寝はしないで女の家を退去したのである。
それはともかく、世話になっている貴族がこの女性を仲間だと見なしているということは、この世界ではないところから来た男だと知っているということである。隠していたつもりだったのにバレていたのか。
それでも大して騒がないのは、この女性がいろいろやらかしながらも、結局は毒にも薬にもならない人間であると見なされたからであろう。