ネギ式

適当に生きるおっさんのブログ

考察:生物の世界は快楽に満ちている(はずだ)

植物には快楽がある(はずだ)

たとえ苦痛がなくても。

植物は動けないのだから、苦痛があっても危険から逃れることはできない。進化的に苦痛のような感覚が発達する理由がない。

一方、植物も水分や光を求めて成長する方向を変えることができる。これは水分や光が快楽であり、快楽を求めて成長する方向を変えていると考えることができる。苦痛と違ってこの快楽は進化的に発達する可能性がある。いや、それは快楽じゃないという意見はもっともである。まったくそのとおりである。しかし、それが快楽でないなら、ひとのいう植物の苦痛もまた苦痛ではない。断然違う。

原核生物も食糧となる物質を感知するとそれを取り込むために細胞を変形させる。これもまた快楽を感じていると考えられる。

生物は危険から逃れる手段よりも先に、栄養を取得する手段が発達したのであり、それはつまり苦痛よりも先に快楽があったということを示している。栄養取得の方が危険回避よりも重要性がはるかに高い。つまり、快楽の方が苦痛よりも重要性が高い。

実際に、快楽と苦痛の両方を感じる生物では、苦痛を乗り越えて快楽を追求する傾向があると思う。ネズミに電気刺激で苦痛を、餌で快楽を与えれば、ネズミは苦痛である電気刺激を乗り越えて餌を食べる。それは必要最低限の餌を食べるのではなく、食べられるだけ食べるのである。(いや、そうなるはずだというだけで、私が実験したわけでもないし、実験した論文を読んだわけでもない)。

もちろん、苦痛を回避して快楽を得られるならばそうするだろう。だが回避手段がなければ快楽が優先される。

生殖もまた快楽である。それは動物の生殖行為そのものではなくても、生殖に至る過程がすべて快楽である。この快楽に導かれて鳥は歌い、求愛の踊りを踊る。快楽に誘導されて行動するので、失敗しても何度でも繰り返す。動物が求愛に失敗しても求愛行動を繰り返すのは、求愛行動自体が快楽だからである。

気温が上がって植物が芽を出すのも快楽であり、花を咲かせるのも快楽であり、風に乗せて大量の花粉を放出するのも快楽である。

生物の行動のほとんどすべてが快楽に導かれての行動であり、生物の世界は快楽に満ちている。ほんの少しの苦痛もあるが、多くの生物にとって最大の苦痛は栄養が摂取できないことであり、他の生物に傷つけられることではないはずだ。避けられないことに対して回避行動は発達しないはずだからである。

 

 

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