ネギ式

適当に生きるおっさんのブログ

アニメ感想:デート・ア・ライブ

今期のIIIじゃなくて、最初のやつだよ。

ずいぶん前に1話を見た時に、こりゃダメだと思ったんだけど、IIIまで出るくらい人気があるなら、どこかによいところがあるのかも知れないと思って見てみたのである。

12話みたけどやはり私には無理であった。いや、よいところというか、ウケそうな要素はたくさんあるんですよ。だから続いた事自体は不思議ではない。じゃあ、なんで私はこれを受け付けないのかということを分析してみた。

 基本的に、主人公とは何かというのが問題なわけですよ。昔の英雄譚なんかでは、英雄は特別な人間あるいは人間以上の存在であって、読者は自分とは違う特別な主人公に感情移入して読むことによって、自分が特別な存在になったような気になれるというものだったと思うのです。

しかし、自分とは違うものに感情移入するというのは、私たち古代人特有の能力であり、現代人からは失われているようなのです。現代人向けの作品では、普通のありふれた人間がなんらかの理由で特殊な能力を持つという段階を踏まないと優れた存在に感情移入できないらしい。これは言い過ぎか。

一方、小説でなくゲームの場合は、感情移入に苦労はない。なぜなら、主人公キャラクターはプレイヤーが直接操作するからである。エロゲやギャルゲーの主人公がどんな選択をするかはプレイヤーに任されているので、無理なく主人公との一体化がなされる。その一体化をしやすいように、エロゲなどでは目が隠れた主人公だったりするのだ。主人公には個性がない方がよいのである。

ところがところが、そういうギャルゲー的世界観に基づくラノベではどうなるかというと、これはゲームではないのだから、読者が主人公を操作することは出来ないわけだ。じゃあ、どうやって主人公に感情移入するのかと言うと、このへんからもう私には理解できなくなりつつあるのだが、おそらくゲームをしている気になって感情移入するのであろう。

さて、このデート・ア・ライブであるが、今言ったギャルゲー的世界観に基づくラノベである。しかし、それだけではない。実に新しい試みがなされているのである。それは、ギャルゲーでプレイヤーが選択する選択肢をゲーム内の主人公以外の人たちが決定するのである。なんと斬新な。(からくりサーカスというマンガの最初の方には、そんな選択肢が表示されていたけれど)

そうすると、読者はプレイヤーの立場にもなれない。プレイヤーの立場の人は作品内にすでにいるからである。(また、この選択肢が、昔のエロゲの意味不明な選択肢ってやつを再現していて、実に笑えないのだが)。

こうなると主人公は他人が操作するキャラということになってしまい、およそ感情移入できるキャラとは正反対の存在となってしまう。なんというか、心理サスペンスにあるような心を持たない怪物のように思えるのである。それで心理サスペンスをやるならいいんだけど、主人公が正義漢っぽい行動をするからますます混乱するのだ。おまえは、私以外の人間に行動も感情もすべてを支配されている操り人形だろうが。

よくわからない。なんか操り人形ではないような行動を取ったりもするのだが、支配を脱したというよりも、そのときは話の都合で作中人物の操り人形ではなく作者の操り人形として行動しただけだったみたいで、その後はまた操り人形に戻っている。

しかし、これは男の主人公についての考察である。ギャルゲのヒロインならば、それはもう最初から最後まで都合のいい人間に過ぎないわけだ。たとえツンデレヤンデレであったとしても、そういう人形として描かれているに過ぎない。すると、この作品は、男の主人公もヒロインと同じようなものだということを主張する高度なレベルの問題提起をしているという可能性もまったくないとは言い切れないような気もしないではない。