ネギ式

適当に生きるおっさんのブログ

考察:魔法のある世界でキリスト教はどうなるか。

中世風異世界が中世でないという話が比較的最近ネットであったが、中世ヨーロッパはキリスト教世界である(私の理解の範囲では)。

そしてキリスト教はキリスト(や聖人)の奇跡をかなり重視している。仏教はブッダの行った奇跡(そういう話もある)をあまり重視していない。ユダヤ教はどうだろう。イスラム教はマホメットが山を呼ぶという話からすると奇跡を重視していないようである。(山を呼ぶのはイスラム教の文化圏での話ではないのかも知れない)。ともあれキリスト教は奇跡を重視している。

そして魔法のある世界では、昔から魔法があるようだ。数百年前から突然魔法が使えるようになった世界というのは、(あるかも知れないが、)そんなに一般的ではないだろう。多くの場合、キリストが生きていた時代にも魔法があったはずである。そしたらキリストの奇跡は、魔法だと解釈されるであろう。それではキリスト教は成立しない可能性がある。

もっとも、死者を生き返らせるのは魔法でもなかなか大変なので、特別優れた魔法使いと認識される可能性はある。魔法体系の中にキリスト教という宗教が成り立つ可能性はある。その場合でもキリスト教でない魔術師集団は存在するはずで、キリスト教が支配的であるとすれば、魔力が強いとか強力な呪文体系を持っているとかいう理由によるはずだ。

キリスト教が一夫一婦制を王族に強制しているとすると、中には魔法の力が劣っても一夫一婦制をやめたい王族も出るかも知れない。あるいは、キリスト教が信者のリビドーを吸収して教団の魔力に換えているとすると、逆に淫祠邪教というか性的興奮を積極的に高めてからそれを魔力に換える魔術集団があるかも知れない。もともとキリスト教の王でも、戦争に負けそうな状況では、淫祠邪教の力に頼る可能性もある。魔法のある世界の魔法は、この世界の奇跡と違って、実用性が重視されるはずだ。キリスト教国どうしで戦争したら負けた方は、宗旨変えしてでも次は勝とうとするのではないだろうか。

奇跡はめったにないから信仰の対象となるのであり、単に力の強い魔法では信仰をつなぎとめるのは難しい気がする。

特に結論はない。

 

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