ネギ式

適当に生きるおっさんのブログ

考察:人身御供とか犠牲とか代価とか

昨日のどろろ関係でもあるのだが、人間を生け贄にすることというか、大切なものを差し出す(奪う)ことで何かを得られるという考えについて。

ここで俺が考えるのは、人道的とかそういうことじゃなくて、相手の大切なものを奪ったとしても、それがこちらにとって無価値なら意味ないじゃないかということである。ただの嫌がらせじゃないか。

俺がキリスト教の神(ヤハウェ)を嫌いなのは、アブラハムにイサクを生け贄にせよと命じたから。神を試してはならないのと同様に人を試してもならない。ただの嫌がらせじゃないか。

でも幼児とかが、気に入った相手(大人でも)に対して、一番大事なおもちゃを貸してあげるというのは分かる。好意の表し方として。(あとで返してといって泣いたりする)

どろろの場合は、鬼神の方からお前の大切なものを差し出せと要求している(と記憶している)のだが、こういうのは俺には意味が分からない。欲しけりゃ、契約なしで勝手に取れるのにと思ってしまうのだ。これは契約を要求する人間側の都合で自分の大切なものを提供するから、無理な願いを聴いて欲しいという呪術的な思考だと思うのである。

そして、そういう俺にとって意味のない取引は、フィクションでは結構ある。なんと言っても俺の嫌いなアニメである「舞-HiME」がこれに該当する。その人の一番大切なものを奪って何になるというのか。嫌がらせ以外の何ものでもない。

こういう大切なものを提供するというのは、犠牲を払えばそれに見合った報酬(成果)があるという考えで、これも俺の嫌いな考えである。特攻とかね。現代社会でも、苦労して長時間残業した方が評価されるとか異常。会社は出さなくてもいい残業代を余分に払うんだから損しているのに。呪術的思考である。

個人個人の価値感は違うので、俺にとってはどうでもいいものが、他人にとっては重要だったり、逆に他人にとっては価値の少ないものが俺には価値があったりするから、互恵的関係が成立するのである。

ひとつの物であって、人によってその価値が異なるから取引になるのである。これはコンビニで物を買う場合でもそうで、百円と百円の商品は同じ価値ではない。同じ価値なら買っても買わなくてもいいはずだが、必要なものは買うのでそれは価格以上の価値があるということなのだ。同じ価値のものを交換しているわけではない。

なので、俺はどうしても「鋼の錬金術師」が好きになれない。あの等価交換の法則さえなければなぁ(漫画としては面白いのに)。ほんとこの法則がクソだと思うのである。何かを手に入れるのに犠牲を払うという考え方が気に入らない。払うのは犠牲ではなくてコストだ。そしてコストは低く抑えることも(ゼロのことも)、無駄に高いコストを払うこともある。

でも犠牲とか対価を払うっていうことは、フィクションでは多いんだよなぁ。日本のフィクションに多いだけかも知れないけど。

体育会系の思想なのか、それとも全体主義の思想なのかと勘ぐるけど、実際には生きて行くのが困難な貧困農村の発想ではないかという気もする。というのは、口減らしでどのみち殺す予定の子供を、これは大切な子供だけれど神の生け贄に捧げるのですみたいなコジツケが人身御供の由来ではないかとも思うからである。

藤井聡太が将棋のためにどんな犠牲を差し出したというのか、大谷翔平が野球のためにどんな犠牲を差し出したというのか。むしろ好きなことを好きなようにやった結果じゃないのか。

努力ってのは、それ自体が楽しいからやるんだよ。(いや、そでない場合もあるが、その場合でも最小の努力で最大の成果を目指すべきであり、あまりにも多くの努力を必要とするならやらないという選択肢もあるのだ)

俺の好きなアニメ「Darker Than Black 」でも代価という考えが出てくるけど、むしろこのアニメは犠牲を払うという従来の思想を踏まえた上で、わざと変な代価にしているように思う。そもそも主人公は代価を払ってないし(あ、ネタバレか)。