ネギ式

適当に生きるおっさんのブログ

雑記:歯車が逆回転する

いい年のおっさんなので、子供の頃のおもちゃは主としてゼンマイ仕かけであった。ゼンマイを巻いて動力にするわけだが、このゼンマイを巻くときに、カチカチと止めるのが歯止めで、これが壊れるとゼンマイがうまく巻けないでほどけてしまう。このゼンマイが引っかからずにほどける感覚が、実にしまりがないと言うか情けないと言うか、おもちゃが壊れてしまったんだなぁという残念な印象として記憶に残っているのである。

ja.wikipedia.org脇に逸れるが、このWikipedeaの記事から歯止めのリンクを辿ると松本清張の小説に飛ばされ、別の意味としてはブレーキにリンクされている(リンクの出来が悪いということである)。こういうのは寄付の多寡では直らないと思う。お前が直せと思われるかも知れないが、歯止めの項目を作るだけでなく、本来の意味でない松本清張の小説を従位になるように、管理者たちを説得するノートを書かなければならないのは面倒極まりないし、説得できる自信もない。Wikipediaで新しい項目を作るのは簡単だが、既存の項目を大きく修正するのはかなり手続き的に面倒なのである。民主的手続きなので反対もあるだろうし。

さて、歯車に戻ると、この歯止めが歯車の逆回転を防いでいるのであるが、ラチェットという言葉から思い出すのは、日常で使われるラチェットレンチ、ラチェットドライバーである(日常で使わない人もいる)。しかし、ラチェットレンチは、一方向に回転させるものだが、その方向は変えることができる。歯車の回転方向はどちらにも出来るのである。

今回のネタは「歴史の歯車が逆回転する」という表現を目にしたことによって思いついたものである。まあ、力を込めて巻いたゼンマイが一気にほどけてしまうという意味では実感のある表現だと思う。努力が一瞬で無駄になる感じが表れている。壊れたゼンマイを巻いたことのない人には分からないかも知れないが。

その一方で、歴史は一方向に進むのが当然であるというような印象も与える表現なのは気になるところである。また、歯車という機械部品に例えることによって、決定論的な印象を与えるのも問題だと思う。私は哲学的決定論否定しているので。なお、「自然科学的決定論などというものはないので、決定論は哲学の主張であって自然科学の主張ではない」と私は主張する。哲学的とつけたのは哲学的概念であることを強調するためである。

歴史的必然性というものは、あると思う。それは仕組みとしてうまくいかないものは、長続きしないという意味において成立する。強大な軍事力によって予想以上に長く続いたりもするのだが。

でも、私たちの理想とするような状態になるのが歴史的必然であり、そうならないのは歴史の逆行だというはどうも違うと思うのである。歴史はそんなに単純に一方向に進むものではない。

でも、すべての価値は相対的なものであるというのとも少し違う。これは哲学的になってしまうが、私は他人とは違う私という特別な存在なので、私が理想と考えるような状況は、他人が理想と考える状況とは重みが違う。ならば、私が理想と考える状況を実現するためにもっと努力したらいいではないかと思うかも知れない。

私の理想の中には、私が楽をしてうまいものを食べて気楽に過ごすということも含まれていて、それを害しては他人が幸福になっても私の理想は実現しないのである(Wikipediaの修正をしないのもこの流れだな。昔は修正したこともあったが)。まあ、ブコメで適当なことを言うくらいなら私の安楽の妨げにはならない。一方、努力しない分だけ、世界は私の理想に少しも近付かないと悲しい気持ちになるのは仕方がない。

例によって、オチもマトメもない。