社会システムの定義とは何か、とかツッコまないで。
車社会
今はすっかり自動車社会で、田舎では車がなくては生きていけないと言われる程だが、私の子供の頃はまだ田舎で自動車は一般的ではなかった。いや、子供時代に急速に自家用車が普及したとも言えるのだが。
子供の頃、納豆屋は自転車で納豆を売りに来た。バイクですらない、自転車である。あと、味噌おでん屋も自転車で売りに来ていた記憶がある。近所には自転車屋があったが、看板も何もない農家の兼業で、それも自転車を売ることよりも修理が主な仕事だったようだ。子供用の自転車はそれなりに売れていたのかもしれない。大人用の自転車は昭和の重くてやたら頑丈なやつ。子供が乗るには三角乗りをする必要があった。
で、そのうちバイクの行商が来るようになった。魚屋がバイクで行商に来て、庭先で魚を捌いていた記憶がある。農家は耕運機に荷台をつけて荷物を運んでいた。
そこから何十年か経った今、田舎では車がないと生きていけないと言われるまでになったが、同時に老人の運転は危険ということで免許を返還するようになってきている。もう行商も来ないし、ネット通販で注文できないと生活できないということになるのか。
年金
今の年金が始まったのは、1954年だそうである。2040年まで保てば個人の寿命に匹敵することになるが、果たしてどうであろうか。
戦後、高度成長期
就職、専業主婦などもそんな気がするが、ここでよく考えてみると、戦後や高度成長期に始まったことが、そろそろ制度疲労を来しているということなのかもしれない。例によってまとまりがないので、ちょっと視点を変えてみる。
個人の寿命は長い
逆に、個人の寿命は十分長いと考えることも出来る。だいたい、政治家は次の選挙で当選するための活動をしているし、経営者は次の決算報告で利益を出すことを考えている。官僚だって政治家の打ち出す方針に従っているだけだ。法人の多くは5年保たないとも言う。
最も長期的視点で考えることが出来るのは政治家でも大企業の経営者でもなく、個人なのではないだろうか。
政治家や官僚は長期的な政策を提案するが、それは現在の問題を一時的に回避したり、先送りしたりする短期的な目的で立てられた長期計画であるとも考えられる。楽観的な長期計画を出さないと次の選挙での当選が危ないから。
だからといって個人の持つ力は限られているので、出来ることも限られるのだけれど。政府の出す楽観的な予測も、悲観的な予測もそんなに本気で信じることはないと思う。特に、悲観的な予測で悲観したところで何も得るものはない。
社会を変える上で個人に出来ることはとても少ない。けれど、社会がどう変わっても、その社会でなんとかやっていけるのが庶民のよいところでもあると思う。やっていけなければ逃げ出すという手もあるし。
何しろ、法人は法人税が少しでも上がるとたちまちみんな日本から逃げ出すらしいからね。個人が逃げていけない理由はないし、法人に逃げ先があるなら、個人にもあるんだろう、たぶん。