ネギ式

適当に生きるおっさんのブログ

職業訓練について

職業訓練は重要である。

義務教育というものは、特定の職業を前提としない基礎能力訓練であると考えられる。一方、職業訓練は、特定の職業に特殊化した訓練と言えるだろう。

ここで問題となるのは、職業によって労働条件や収入が大きく異るということである。また、訓練内容の厳しさや訓練期間の長さ、訓練費用なども異なる。また、場合によっては訓練失敗という状況もあり得る。芸術家や棋士などは厳しい訓練にも拘わらずプロになれないこともあるのだ。

さて、西暦2017年の現行日本国憲法によれば、国民には職業選択の自由がある。職業選択の自由というのは特定の職業に就くことを強制されないことであって、能力もないのに好き勝手な職業に就けるという意味ではない。ストリートミュージシャンをやってみることは出来るが、勝手に医者を名乗って治療行為をすることは出来ない。国民でないから職業選択の自由がない人もいるし、実質的に職業選択の自由がない国民も存在するが、その数はとりわけ多いというほどでもない。

ここで、どういう職業を目指してどういう職業訓練を受けるかという選択が必要になる。これは人生においてなかなか重要な選択である。一般的には楽で稼げると思われる職業は、訓練に時間と金と苦労を伴うものであり、更に才能や努力の欠如によっては、訓練自体が無駄になる可能性もあるからである。

だからといって、ほとんど訓練を必要としないような職業は、(現代では少なくなりつつあるが、)収入も少なく、社会的地位も低く、自己肯定感も少ないであろう。職業訓練というのは個人にとっては最大の自己への投資であり、判断力が試される状況なのである。

しかし、個人の立場を離れて、社会的な見地からすれば、可能な労働力を遊ばせておく手はないので、訓練されていない労働力をその分安く買って、訓練を施して使用するということが考えられる。この場合、訓練という投資をした側が、投資の成果を回収することになるのは資本主義的には当然の成り行きである。

また、別の見方をすると、職業ごとに必要な人数の範囲というものあるわけだが、当然のように、割のよいと思われる職業は人気が高く、割に合わないと考えられる職業は人気が低い。この場合、人気が低い職業は概ね収入も低いので、資本主義的な市場による調整機能はうまく働かない(かも知れない/こともある)。

そういう資本主義的な市場がうまく働かない場合の調整機能は、国家の役割のひとつであるとも考えられる。この場合、国が多少の補助金なりを出して後は資本主義市場に任せるという方法もあるし、国が直接的に職業訓練事業を行うこともあるだろう。どちらの場合であっても、調整機能として行う以上は、人気がないが需要がある(が収入は低い)職業の訓練ということになるはずだ。

あなたが自分で職業(と職業訓練)を選ぶという投資判断をしなければ、他人や国家が適当な職業訓練をしてくれるかも知れないが、それはそうする側の利益のためであって、あなたの幸福のためではない。

え、俺はどうやって職業を選んだかって?

まだ選んでないような気もするし、単に脱走して来て適当な仕事をしていただけのような気もする。