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雑記:主人公が子供である理由

ブクマされた増田を見ての俺の雑記、またはたわごと

anond.hatelabo.jp元々の質問者の子どもとは中高生の年頃を指すと理解しておく。

イニシエーションによる説明では自己撞着的である。なぜなら、イニシエーションの儀式のある社会では、イニシエーション前が子供であり、イニシエーション後が大人だからである。その年令が中高生である必要はない。確かに中高生は思春期ということになっているが、それもまた社会の変化によって影響を受けるのであり、昔の思春期と現代人の心の動きが一致するとは限らない。

現代社会において、イニシエーションを受けるのは、就活から新入社員研修にかけてである。このとき人は全人格を否定されるような儀式を受け、社畜になるか、それとも個人として生きるかの選択を初めて迫られる(その後も選択のチャンスはあるが)。これが人生最大の精神的ピンチであり、親の保護下の思春期などという生ぬるいものよりも人としてはるかに重大な時期なのである。

実際には、就活と新入社員研修が人生を決める最大の障害である。しかし、社会の認識としては、大学受験が人生最大の難関と見なされている。だから大学受験前の中高生がイニシエーション前の子供と見なされるのだろう。

その理由はたぶん二つある。ひとつは、受験体制である受験に向けて勉強しなさいと学生を追い込むために、大学受験で人生が決まってしまうかのような幻想をみせるようになっている。これは塾や予備校だけでなく、小中高を通した教育がそういう幻想を見せて学生を追い込むことで成立しているという側面があるからだろう。

もうひとつの理由は、多くの場合、創作者や雑誌編集者は就活というイニシエーションを経ていない人間だからであろう(実は私も就活してないのだが)。そのために就活の精神生活における重大性を軽く見ているのではないか。

大学の進学率が低かったときは大学受験の人生における重要度ももう少し高かったのだろうが、進学率が上がったことと浪人も含めればどこかに潜り込めるという状況からすると、大学の壁は低い(大学格差とかあるけどさ、まあそれはそれとして)。

一方、就活は実際の人生において過酷である。大学浪人よりも就職浪人のほうがずっと厳しい。何よりも大学受験では人格を否定されるようなことはない。

継承というのも、現実の社会では中高生が何かを継承することはほとんどなく、社会人になってから継承する。いやむしろ、中高までの学校教育では継承というような形は極めて少ない。基礎学力をつける段階であり、何かの技術を身につけるのは専門学校か、大学の専門課程になってからである。技術継承過程を描くならこの時期の年齢の方が現代の読者にとっては身近なはずだ。

私が考えるに、日本において、中高生がエンタメの主役になる理由は、大学入学以後はレールに乗った人生であり選択の余地または自由がないが、中高生の間だけは人生の選択の余地があるという受験産業の作った幻想にある。

この幻想のために、よいレールに乗るための勉強を強いられ、あるいはスポーツの大会でよい成績を取ることを強いられて、中高生もまた本質的には自由ではない