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ネギ式

適当に生きるおっさんのブログ

禅とプログラミング

というタイトルはPV集めに良さそうだ。けれど、最後の方にならないとそこにたどり着かないし、たどりついてもどうということもない。

日本人の多くは仏教徒だと思うが、その割に現代語訳(あるいは日本語訳)の仏教典を読む人が少ないという印象がある。まあ、単に俺の印象に過ぎず、仏教系の大学や高校では普通に読んでいるのかもしれない。般若心経は例外的によく読まれているが、現代日本語として読んでいるかやや疑問がある。

そういう私自身も、岩波文庫の「般若心経・金剛般若経」と「ブッダの言葉」くらいしか読んでいないわけだが。欧米で聖書が読まれているのに比べると圧倒的に読まれていないと思うのだ。もちろん、欧米は宗教改革の影響で聖書が読まれるようになったわけで、日本にはそれに該当するものがなかったという理由もあるだろう。それにしても、みんな文字が読める時代で、現代語訳も出ているのだから仏典はもっと読まれてもいいんじゃないだろうか。

般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)

般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)

 
ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

 

それ以外に私が思うのは、日本人が仏教に求めているのは宗教的な救済ではなく、宗教儀式だけなのではないかということである。葬式仏教化は寺側の都合だけではないんじゃないかと。

そして、現代日本人が多少なりとも宗教的な救済を求めるのはその家の宗派ではなくて、禅寺に対してではないだろうか。でも、座禅は手段に過ぎないので、凡人が座禅したところでそう簡単に精神的な問題が解決されるものではない。(ああ、曹洞宗の場合は座禅自体が目的なのか。いや、それなら一層のこと、座禅によって何かが解決される訳ではないということになると思うんだけど。)

私は座禅をする気はない。叩かれるの嫌だから。それにすぐ寝ちゃうし。何より、必要性を感じないから。というのは、私にとってはプログラミングが禅に相当するからである。無心でプログラミングしているわけではないが、プログラミングしている間は、プログラミング以外のことはあまり頭に浮かばない。それを以って無心ということも可能だろう。

ただ、プログラミングは座禅よりは禅者の作陶や掃除に近いものだと思う。禅に拘らなければ、修道僧による書写にも似ているだろう。なんというんだろうか、苦痛であってもおかしくない程いろいろな制約があって面倒なんだけれど、出来たものにそれを感じさせない自然さがあったほうが良い出来と判断されるようなもの。

特に結論はないです。