哲学というものは学ぶのではなくするものだそうな。少なくとも哲学者は(学習期間の後かも知れないが)哲学するという考え方は納得できるものがある。そりゃあ、哲学する手段として過去の哲学者の哲学を研究することもあるだろうが、哲学者が本来行うことは自己の哲学を確立することなのだろう。
しかし、哲学は深い。この時点で確立したと言えるような時点はないのだ。たとえば、田吾作という哲学者がいたとして、少し考えがまとまったから本を書いたとする。それが初期田吾作哲学というものになる。しかし、田吾作はそこで思索を止めない。本を書いたあとも田吾作哲学を深めていく。そうして中期田吾作哲学、後期田吾作哲学というものが出来てくる。実際には毎年毎年思索を積み重ねていくのだが、もっと細かく分けることもできるはずだ。手紙などが残っていれば初期と中期間の中間的な思想を知ることも出来るだろう。
後世の人が田吾作哲学を学ぼうとするとその完成形である後期田吾作哲学を学べばよいかというとそうはいかない。後期田吾作哲学は、田吾作が思索に思索を重ねた結果であるから、いきなり理解するのは難しいのである。後期田吾作哲学を理解するためには、初期田吾作哲学から順に理解していく必要がある。また田吾作が使う用語も、初期と後期ではその意味が違ってくる。それは田吾作が哲学者として成長したということなので避けようがない。
しかし、初期田吾作哲学は田吾作がそれまでに学んできた多くの思想家の影響を受けている。実際、初期田吾作哲学の用語には他の哲学者の用語が使用されているのである。その用語を理解するためにはそのもとになった哲学者について学ぶ必要がある。
きちんと学習するならば、こうして文献があるかぎり遡るべきなのだろうが、とてもそうしてはいられないから、解説書なり入門書を読むことになる。田吾作が有名な哲学者なら、入門書もいくつかあるだろう。入門書には田吾作哲学の本質がわかりやすく書かれている。しかし、田吾作哲学の本質が何かという点には、解説者の私的な考えが入り込むし、わかりやすくしようすれば本質を失いがちである。それは初期、中期、後期と分かれる田吾作哲学に更に別の流れを入れてしまうことにならないか。
一人の哲学者についてでもこうであるが、実は思想を同じくする哲学者の集まりというものがあって、たとえばそれは田吾作派の哲学者ということになる。田吾作派の哲学者はだいたい思想を同じくしているという了解があるが、物事を深く考える哲学者なので完全に思想が一致するということはない。また、中期田吾作哲学に惹かれて田吾作に師事した哲学者が、後期田吾作哲学には異を唱えるということも起こる。
そういう事情を知らないで、安直に田吾作派の哲学について理解しようとして何冊か本を読むとなんか言っていることが違うような気がして戸惑うわけである。
近年の言葉狩りで批判されることもある「群盲象をなでる」という言葉がある。哲学を学ぼうとすると、哲学者たちは象をなでている群盲なのではないかという印象を受けるのである。これはそんなに外れていないという気もする。非常に高度な概念に、思索だけで到達しようとすれば、手探りの作業になるのは必然とも言えるからである。誰にも見えない象なら、手探りで正体を確かめるしかないのだ。