ネギ式

適当に生きるおっさんのブログ

読書感想:ことばと国家

強い本だ。面白い。

アジアのお箸さんの記事を見て図書館で借りた。

jkcv.hatenablog.com

薄い新書なのに内容が多過ぎて感想が書ききれない。

丸谷才一批判、言語学の立場からのソシュール引用などがあるが、基本的には純粋な言語という考え方に対する批判。

丸谷才一は「純粋な日本語に戻れ」というような主張をして実践していた人。ソシュールは、俺のこれまでの読書範囲においては、主に哲学的立場から引用されることが多かった。

方言という言葉はそれ自体が侮蔑的な意味を持つので好ましくないが、方言とされるか別の言語とされるかは政治的なもので、言語自体には特に違いがないことも多い。

書き言葉と話し言葉でいえば、話し言葉こそが本来の言葉である。話し言葉があってこそそれが書かれるのだから。したがって、書き言葉の方が上等な言葉であるというような考え方は言語学的にはおかしいというわけだ。

丸谷才一とは逆に、著者はダンテを絶賛している。俗語で小説を書いたのはダンテの俗語を重要視する主張の結果であって、まさに丸谷才一とは正反対の行動をしている訳である。しかも、当時は俗語で書くということが考えられなかった時代だから尚更である。

そしてフランスとフランス語の関係が興味深い。

フランス革命と言語」という章もある。国内植民地とか。フランス革命の「自由・平等・博愛」に反して、国内のフランス語以外の言語に対する弾圧はひどい。それは「フランスでは英語が通じない」と言われることとも関係があるのだろう。フランス語はヨーロッパ全域で通じる(上流階級の)社交界語とでもいうべき地位をかつては持っていたことも関係あるようだ。

同じ革命でも、ソ連では言語弾圧はなく、革命思想を表した本が様々な言語に翻訳されたという。これは革命思想を一般労働者にも広く知らしめるためには労働者の話す言葉に翻訳する必要があったかららしい。

フランス革命は「自由・平等・博愛」というスローガンだけなので、思想を広めるよりも、同じ言語を国内で強制することによる国家の一体感のようなものを重視したのだろう。

日本についても書かれていて、アイヌ語と沖縄語が例に挙げられている。沖縄方言ということが多いが、沖縄の言葉は本土の言葉と関連性が高い。一方アイヌの言葉は本土の言葉と明らかに違う。ここで沖縄方言と言えば、沖縄と日本本土の一体性を主張することになる(と同時に沖縄の劣等性も含意してしまう)。

そして韓国併合後や台湾で強制された日本語教育もフランスの言語弾圧に近いものがある。

フランスに戻ると、アルザス・ロレーヌ地方の問題というものがある。俺はこのアルザス・ロレーヌ地方と聞くと子供の頃に読んだポプラ社のアルセーヌ・ルパン物で、ルパンの(あるいは作者の)すごい愛国心で、アルザス・ロレーヌはかつてドイツに奪われたフランスの地方を奪回したところというような話を思い出す。ところが、アルザス・ロレーヌ地方で話されている言葉は、フランス語の流れではなく、ドイツ語の流れの言葉であり、その地方の人はアルザス・ロレーヌ語というように言っている言葉である。そして、その言葉はフランスでは公用語ではなく、学校で教えることも出来ない弾圧された言葉なのである。ここはかなり複雑なので、俺のいい加減な要約ではなく、読者で調べて欲しい。

このアルザス・ロレーヌ語についてドーデーの「最後の授業」という作品があって、感動的に最後の授業が語られているが、その授業というのがフランス語強制の授業なので、実に複雑な状況なのである。ということもこの本に書かれている。

 

 

 

日本の方言追放運動の罰札制度についての記述もある。罰札制度とは、方言を話した生徒は罰札という札を首から下げなければらない。そしてその札を外すには他の生徒が方言を話しているところをみつけるとその生徒に自分の罰札を掛けることが出来る。ゲームのようだが、密告制度であり、作者は「学校は、すべての方言の話し手を犯罪者にし、密告者を育てあげる場所である」と言っている。これも日本独自の制度ではなく、フランスに起源があるようだ。

あとはユダヤ人の話し言葉イディッシュ語とか、簡易英語(とは限らないが)ピジン語とかについても書かれている。

強い、面白い、感想を書ききれない本である。