図書館で借りた本。大変面白かった。
この本の内容
著者によるとこの本はマックス・ヴェーバー研究の「伝記論的転回」であるという。基本的にはマックス・ヴェーバーについての批判的な本のように思える。そして、これは伝記のように年代順にマックス・ヴェーバーのことが書かれているが、どうも伝記ではないようだ。これはマックス・ヴェーバーを時代の人としてとらえて、その時々の時代背景とその時のヴェーバーの演説や論文を関連付けて理解するという立場の研究であるようだ。
この本ではマックス・ヴェーバーをナショナリストと考えている。まず「ドイツ・ナショナリズム」というものがあり、それは「ドイツ人であると自負し、ドイツ的と思われるものを維持拡大しようとする思考」としている。つまり、マックス・ヴェーバーの思想の中心にはこの考えがあると著者は言っている。その他に、「プロテスタント」「資本主義」がマックス・ヴェーバーの思想の主な柱になっているようだ。
そしてまた「主体的」であることがマックス・ヴェーバーの理想とする人間のあり方だと著者は考えているようだ。主体的であるということは、他者に媚びへつらわないということであり、闘争的であるということに繋がる。それゆえ、マックス・ヴェーバーは生涯に渡って論争するのである。また、論敵であっても主体的な人間は尊敬するようだ。
私の感想
マックス・ヴェーバーは社会学者・経済学者などと書かれているし、大学で社会学の講義や経済学の講義をしているからその肩書きは間違っていない。しかし、私が受けた印象としては、マックス・ヴェーバーは、学者というよりは論客である。主にマルクス主義に対する資本主義側の論客だと思う。ドイツ愛国者、プロテスタント、資本主義という立場に立った上で、意見論文を次々に発表したり、演説を行なったりした論客だと思われる。マックス・ヴェーバーの著書や論文は客観的な学術論文としては問題があるが、意見論文としては素晴らしいものだと思う。少なくとも同じ立場の人にとっては、歓迎するべき内容であろう。意見論文のとても上手な人というのが私の印象である。
知の巨人
私はもともと反権威的な人間なので、「知の巨人」などという言葉が大嫌いである。しかし、この本を読んだことによって、「知の巨人」の正体が少し分かった気がする。
つまり、「知の巨人」というのはマジョリティ側の論客のことではないかと思う。マイノリティ側はマイノリティであるがゆえに、いろいろな理屈で理論武装して来るが、マジョリティ側の一般人にとっては今までの考え方は当然のことであって、それが正しいとする理屈は思いつかない。そこでマジョリティ側の理屈を付ける人がいると、あの人が言っているから正しいというようにマイノリティに反論できるので便利なのである。あの「知の巨人」が言っているのだから間違いない、と。これは権威主義だけれど、マジョリティ側は権威主義と相性がよいので問題ない。主体的人間とは相性が悪いけど、虎の威を借る狐のようにマックス・ヴェーバーを「知の巨人」と持ち上げて利用する人はそんなこと気にしないのだ。
マルクス主義
私は「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は読んだけれど、「資本論」は読んでいない。読まなくてもいいでしょ。そのうち読むかも知れない。
少なくとも「唯物史観」はまったく納得できない。そんな訳ないだろう。
一方で現代日本人としては、社会主義的政策に同意するものであり、資本主義はそのままでは不平等であるだけでなく、経済的にも行き詰まるので修正が必要であると考えている。かなり大幅な修正が必要だと思う。
けれども一党独裁の共産主義には反対である。それもまたうまくいくはずがないものだ。現実に多くの例でうまくいっていないだけでなく、どうやってもうまくいかない体制であろう。