ネギ式

適当に生きるおっさんのブログ

読書感想:プラチナデータ

東野圭吾の小説。ネタバレ感想。

ここで言うプラチナデータは、いわゆる貴重なデータという意味ではなく、この小説内で特殊な意味をもつ言葉である。

この小説はアニメファンの俺からすると、PSYCHO-PASSや24区と同じような管理社会(に変化して行くところ)を描いたディストピア小説のように見えるのだが、そのへんが作者の意図するところと私のディストピアに対する考えの違いがあって、うまく楽しめなかった。

このディストピアは日本人のDNA情報を大量に収集しておいて、犯罪現場から採取されたDNAと比較することによって容疑者を特定するというシステムが導入された社会である。しかも、重要な点は、容疑者本人のDNAが登録されていなくても、親類縁者のDNAが登録されていれば、登録者の3等親以内に容疑者がいるというように検索が可能なのである。

その結果、親類縁者から犯罪者を出さないように抑制が働くので、単に容疑者の特定が早いだけでなく、犯罪抑止効果があるということが小説内に書かれている。いやあ、地獄ですね。これは座敷牢とかに親族内の異端者を閉じこめるようになりますよ。そして座敷牢も犯罪なので、座敷牢があることがバレたら一家で無理心中をするのではないかと、私などは想像するのである。

それなのに、その現場に残されたDNAから容疑者特定というシステムに問題点として東野圭吾が挙げるのが、特権階級によるシステムの例外処理というのだから、私としては飽きれる他はない。同時に、多重人格の人物を登場させている点も、小説内に明白には記述されていないけれども、DNAは同じでも人格が違う者の犯罪をどうするかというように問いかけているようにも思える。まあ、それは問いかけというよりも、明白なミスディレクションなのだが。

この作品自体が、DNAデータの管理という問題点を、特権階級の例外処理というつまらない点に卑小化するというミスディレクションの役割を果たしているのではないかと思うくらいである。ミステリを書いている人は、警察などに取材しているうちに、すっかり警察の立場になって管理社会を理想と考えてしまうのだろうか。

ところで関係ないけど、私はマイケル・クライトンの小説を1作しか読んだことがないのだが、マイケル・クライトンが嫌いである。この作品を読んでいると、東野圭吾は日本のマイケル・クライトンを目指しているのではないかと思えた。(マイケル・クライトン原作の映画は1本見た)

重大な問題点に比べれば些細な点だが、アメリカから日本に来た日本人の女性捜査員みたいな人が登場するのだが、これは日本人である必然性がまったくないと感じた。私の好きなアニメならこの女性はアメリカ人(もしかしたら黒人女性)に設定する気がする。ラノベが漫画やアニメを意識した小説の作りになっているように、東野圭吾(やその他の日本のベストセラー狙い)の小説は、映画化やドラマ化を意識して日本人の俳優が演じられるように小説を書いているのではないだろうか。

さらにこれも些細な点だが、比較的最初にちょっとだけ言及される陶芸家が、いかにも高慢な芸術家であるように思えたのに、最後には純粋な芸術家として肯定されているのも変な気がした。まあ、ここは誤読という可能性も高い。俺が気取った芸術家を嫌いなだけ。

コンピュータ・システムに関しては、素人が書いているのだから、突っ込んでも仕方がないけど、特権階級のマークがついているデータを検索するなんて、とても簡単なことだろう。