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偽書:生きている炭素と人類

概要

本稿ではガイアにおける物質循環を概観する。そして生きている炭素という概念を提唱し、ガイアにおける人類の生態学的地位を明白にする。最後に、人類がガイアのために果たすべき行動を示唆する。

導入

偉大なるジェームズ・ラブロック博士の提案したガイア理論は、今日の地球環境を論じる上で、基礎となる最も重要な概念である。まず心に留めておく必要があることは、ガイア理論は純粋に科学の理論であり、魂や精神を扱うものではないということである。ガイア理論が扱うのは物質としての生物である。ガイア理論において命という言葉を使うことがあったとしても、それは魂という意味ではなく、生命活動という意味である。繰り返すが、ガイア理論は宗教ではなく、科学なのである。

本稿では、物質の中でも特に炭素を扱う。炭素は有機化合物の基本構成要素であり、生命にとって重要な物質である。また本稿で扱う炭素は地球表面付近の炭素に限る。地球のマントルを含む深部には、地球表面に存在するよりもはるかに大量の炭素が存在するが、そのほとんどは地球表面で行われる生命活動に影響しない。また、放射性炭素の崩壊や火山の噴火などによって炭素の増減があり、厳密には地表付近の炭素量が一定しているとは言えないが、本稿ではこの変動を無視して、地表付近の炭素は一定の量であると仮定して議論を進めることにする。

科学としてガイアを考えるときに、重要なのは物質の循環とエネルギーの流れである。地表付近で行われる生命活動において、エネルギーは太陽からの光が大部分であり、生命活動によって大気の熱となり、最終的には宇宙に放射されるのがエネルギーの流れである。このエネルギーの流れのうち、光合成生物によって有機化合物が合成されてからのエネルギーは有機化合物の結合エネルギーとして、生物の間を伝わっていく。このため、有機化合物の流れを押さえればエネルギーの流れも概ねそれに従っているとみなすことが出来る。つまり、特にエネルギーの流れを論じなくても、炭素の流れについて理解すれば、おのずとエネルギーの流れも理解できる。

炭素の循環

食物連鎖のピラミッドというひどい間違い

ここでは食物連鎖のピラミッドという概念が、科学的には正しくないということを示そう。生産者である光合成生物を、第一次消費者である草食動物が食べるということになっている。しばしば見られる図では、草や樹木が生産者であり、牛や羊が第一次消費者となっている。そして、食物連鎖のピラミッドに関連する概念として食べることによって命を奪うという考えがある。命を奪うという概念は宗教的な概念、少なくとも日常的な概念であり、多少なりとも科学的に正確に述べようとするならば、生命活動を停止させるというように言うべきであろう。

しかしながら、植物のほとんどは食べられることによって生命活動を終了しない。一年草は冬を越せないので、生命が終了するのである。もっと正確に言うならば、種子などの状態で冬を越すのであって、食べられることによって生命活動が終了するわけではない。種子が食べられれば死ではないかという反論もあるだろう。確かに、一個の種子が食べられればその種子は生命活動を停止する。しかし、種子の多くは発芽条件が整わないことによって生命活動を停止するのであり、食べられることは主要な条件ではない。あるいは、発芽後の水不足や日照不足によって生命が停止するのである。逆に、食べられることによって発芽の条件が満たされる種子もある。

もちろん、例外はあって、飛蝗などの現象が起きれば植物が食べ尽くされることはある。しかし、それはあくまでも例外であって、生産者と一次消費者の一般的な関係ではない。

食物連鎖のピラミッドにおいてしばしば無視されているのは、分解者の存在である。落葉樹は秋から冬にかけて葉を落とす。落葉樹でなくても、古い葉は枯れて落ち葉になる。その落ち葉は分解者によって分解されて最終的には二酸化炭素になる。そこには命を奪うなどという宗教的な概念の入る余地はない。(それなので、食物連鎖のピラミッドからは除外されているのだろう。)また動物の糞便も多くの生物にとって栄養豊富な食料であり、無視してよいものではない。

一次消費者のなかで大きな部分を占めるのは昆虫であるが、昆虫も冬を越せないで死ぬ個体が多い。捕食される個体と冬を越せない個体のどちらが量的に多いかは議論の余地があろうが、捕食されなかったとしても冬を越せないことに変わりはない。捕食されなければ生き延びられたはずの命が奪われたという考え方は正しくない。

昆虫は多くの卵を生み、その卵の一部は冬の寒さなどで孵化できずに死ぬし、孵化した幼虫も捕食されるものもあるが、餌を採れずに死ぬものも多い。植物の種子もその多くは水や温度や日光の不足などの資源不足によって枯れる。生物の死は、個体数増加への挑戦の結果として必然的なものであり、捕食されることが死の主要な原因という訳ではない。

捕食関係によって、生物を階層分けする食物連鎖のピラミッドという考えは間違っている。これは宗教的に仕掛けられた罠であろう。つまり、人間が他の生物の生命を奪って生きているという罪の意識を植え付けてから、その後に宗教的な救済を与えることによって布教するという仕組みである。

次世代の数

細胞分裂によって増殖する生物はひとまず除外しよう。そうすると生物は次世代、卵や子の数が親の世代よりも多くなるように生むものである。これは過酷な自然に対して、常に個体数を増加させようと挑戦しているからである。環境が劇的に良好にならない限り、次世代の大多数は飢えて死ぬことになる。これは個体数増加という挑戦の結果としての死である。

また大量の次世代は進化の原動力でもある。多数の次世代の中に変化した少数の個体が生じるからである。そして進化の結果でもある。より多くの次世代を残す生物が進化してきた。ただし、より多くの成熟した次世代を残すか、単に生まれる個体を多くするかで、少産少死戦略を取る生物もあれば、多産多死戦略を取る生物もある。しかし少産少死戦略であっても次世代の数は親の世代よりも多い。

大量の花々が咲き乱れる風景や、小魚の群れや、猪の仔が何体も群れている様子は、人間にとって平和な光景であって、決して残酷な死をイメージするものではない。象やキリンの仔は一度に一匹しか生まれなくても、生涯の出産数が多いので次世代の数は多い。多数の幼体は生物にとって種の存続に必要なものであり、決して忌むべきものではない。

しかし、生物の生存に必要な資源は、多少の変動はあっても、有限であり、生まれた個体のすべてが成長するには足りない。生物の個体数は利用可能な資源によって最大数が制限されている。捕食されることよって、その最大数がよりも個体数が減ることはあっても、捕食されなければ、すべての個体が可能な最大寿命まで生きられる訳ではない。

分裂によって増殖する生物も、利用可能な資源のある限り分裂を続けて、そして資源を消費し尽くして、死ぬか、または休眠状態となる。ただし、休眠状態となった個体の多くは、次の資源に巡り会えないで死ぬことになるだろう。

炭素の循環

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図1

より科学的に考えるならば、食物連鎖のピラミッドではなく、炭素の循環を考えるべきである。光合成生物が日光のエネルギーを使って、二酸化炭素や水やその他の無機質から有機化合物を作り出す。光合成生物が老化や水不足や日照不足によって死ぬと、その体は主に菌類や無脊椎動物によって利用され、それらの生物の構成要素になったり、あるいは分解される際に活動エネルギーとなって二酸化炭素を排出する。

場合によっては、光合成生物は他の生物に捕食されることもある。単細胞の藻類は他の単細胞生物や多細胞生物に捕食されるだろう。これらの捕食者は、やがて飢餓によって死ぬか、またはより大型の生物によって捕食される。飢餓によって死んだ個体を構成していた炭素は、分解者によって分解されて、二酸化炭素になるか、またはその生物の一部となる。

また消費者の捕食した餌も、すべてが消化されるわけではなく、多くの部分が糞便として排出される。糞便は多くの生物にとって重要な食料であり、また糞便の分解者と共に陸上植物に炭素以外の必要な元素を供給する重要な栄養源となる。

こうして個々の生物は徐々に大型の生物に捕食されていく一方で、常に捕食以外の死があり、どちらの場合も捕食者や分解者の構成要素となったり、エネルギー源となったりする。エネルギー源となった場合は、炭素は二酸化炭素として排出される。捕食関係は長い連鎖を作るが、同時に二酸化炭素を排出する短い連鎖も存在している。

そして二酸化炭素光合成生物によって再び有機化合物になるのである。

ただし、図1も概念図であって厳密な分類を表すものではない。例えばハイエナは腐肉食として有名であるが、実際には狩りをして獲物を仕留めることも多い。図1において、ハイエナは二次消費者と分解者の二つの役割を果たしているとみなすことが出来る。一つの生物種は一つの役割しか果たせないという訳ではない。

生きている炭素

地球環境を生物としてみるガイア理論からすると、炭素の循環はガイアを流れる血液のようなものである。ガイアを哺乳類に例えることは、科学的にはまったく適切とは言えないが、環境問題の一般への啓蒙という点からすると、多少の妥当性を認めてもよいだろう。

炭素の循環は、エネルギーの流れを伴っているので、ガイアを構成する生物が生きていく上で絶対に必要なことである。これはガイアの生存にとっても炭素の循環が絶対に必要であるということである。

しかし二酸化炭素は炭素循環においてエネルギー最低の状態であり、光合成生物にしか利用できない状態である。また、二酸化炭素有機物ではないので、いかなる意味でも生きてない。私がここで提案する生きている炭素という概念は、炭素循環の中で生物を構成する炭素という意味である。二酸化炭素は生きている炭素に含まれない。

ガイアを生物とみなす以上は、生きている炭素の割合が大きいことが望ましいであろう。あるいは、炭素循環の中で生きている炭素である期間が長いことが望ましい。二酸化炭素は炭素循環の中で欠かせない要素であるが、速やかに光合成生物によって生体の一部に合成されることが望ましいのである。

先に、生物は個体数増加を挑戦すると書いたが、不幸にしてガイアは個体数を増加させることが出来ない。地球環境を一個の生物とみなすという考え方自体が、ガイアの個体数を制限しているからである。これはたとえ人類が宇宙に進出しても変わらない。地球環境だけがガイアだからである。

しかし、例えば樹木は生涯成長を続ける。ガイアの個体数を増やすことが出来ないにしても、ガイアを大きく成長させることは出来るのではないだろうか。ガイアの成長とはすなわち、生きている炭素の増加である。

炭素循環の淀み

二酸化炭素の増加

水の流れに淀みがあるように、炭素循環にも淀みがある。これはガイアにとっては望ましくない状態である。淀みのない炭素循環こそがガイアの健全な状態なのである。淀みを解消することによってガイアを成長させることが出来るという点こそ、本稿の趣旨である。

近年、地球大気中の二酸化炭素濃度が増加している。これは炭素循環の淀みである。二酸化炭素のところで炭素循環の流れが留まっている。二酸化炭素の排出に光合成による消費が追い付いていないのである。

しかし、これは奇妙なことである。生物は個体数増加に挑戦し続けていて、資源があれば個体数は増えるはずである。二酸化炭素について言えば、二酸化炭素が増えれば光合成生物も増えるはずである。もうひとつ重要な資源として日光があるが、地球に入る日射量は減っていない。

何が光合成生物の増加を妨げているのか。その問題点を除去すれば、光合成生物は二酸化炭素の量に応じて増加し、淀みは解消されるはずである。

二酸化炭素の排出を抑えるということは、炭素循環の速度を遅らせるということであり、ガイアの活動を抑制することになる。これは望ましいことではない。光合成生物の増加を妨げている問題を解決することがより望ましい。

問題は森林の減少である。炭素貯蔵庫としての森林ではなく、光合成活動主体としての森林が必要である。淀みのない炭素循環を考えるならば、二酸化炭素から有機化合物を合成するという活動が重要だからである。

太陽光発電は、それ自体では二酸化炭素を排出しないエネルギー源となるが、そのために陸上植物を伐採するのであれば、二酸化炭素の吸収を阻害していることになる。

炭素循環の近道

淀みとは逆に炭素の循環が近道を通ってしまうこともある。これも炭素の循環の中で生きている炭素の期間が長いことが望ましいとする我々のガイア思想によれば好ましいことではない。人間の死体の焼却や糞便の処理はこの近道にあたる。

人間の死体は多くの生物を養うだけの栄養があるのに、焼却によっていきなり二酸化炭素に変えている。これは生きている炭素の期間を何段階か飛ばしてしまうことになる。人間の糞便の浄化処理は微生物による分解ではあるが、やはり蝿の蛆による糞食などの段階を飛ばしてしまっている。

陸上植物の限界と海洋生物の可能性

陸上植物は現在の地球環境において、光合成の主体であるが、限界がある。それは土地を資源として必要としているという点である。現代では陸上の土地は人間が所有している。人間の所有している土地では、どんな生物も利用可能な資源のある限り増殖するということは達成できない。

海洋性の光合成生物にはこの限界はない。海洋も人間の国家が所有と管理をしようとしているが、十分に管理できていない。今後も人間には海洋を陸地のように管理することは出来ないだろう。

光合成生物も最初は海で生まれたと考えられているし、現在も多種の光合成生物が海で活動している。しかし、海洋性の光合成生物の活動は陸上に比べて大きくはない。少なくとも密度が低いことは明らかである。その一つの証拠は海が青いということである。青は水の色である。これは陸地が緑であることとは対照的であり、海洋における光合成生物の密度が低いことを意味している。

このことは希望でもある。海洋面積は約3億6106万平方キロメートルであり、約1億4889万平方キロメートルの陸地の二倍以上である。海洋性の光合成生物が増殖すれば、その二酸化炭素吸収量は陸上生物を遥かに上回る可能性がある。陸上植物の類推で固着性の藻類を考えると、海の底まで届く光は少ないので、海洋の光合成量は少ないと思うかもしれない。しかし、浮遊性の植物プランクトンであれば、海洋表面全体を利用可能である。

それでは現在の海にはなぜ光合成生物が少ないのであろうか。このことは既に研究されている。生物には炭素や水などの主要な元素の他に様々な微量元素が必要であるが、海洋においては主に鉄イオンが不足しているのである。

鉄イオンを人工的に海洋に散布することによって、植物プランクトンが増殖するであろう。海洋航海中の船舶から散布してもよいし、飛行機から散布してもよい。ただし、大量の鉄イオンを広く散布する必要があることから、安くかつ自動的に散布することが望ましい。海流に乗せて流した筏から鉄イオンを自動散布するなどの取り組みが必要だろう。

 海洋における物質循環の問題点

現状において海洋性光合成生物が少ないことの理由は主に鉄イオンの不足であるが、鉄イオンの不足には原因がある。それは炭素を含めた物質循環に問題があるからである。海洋表面において光合成生物によって有機化合物が合成され、この有機化合物には炭素の他に鉄はリンなどの元素を含むが、これらの有機化合物からなる生物は捕食関係によって移動していく。

この移動方向は主として上から下に向かう。特に生物の死体は下に向かい海底に堆積する。問題の一つは海底においては分解者が少ないことである。これは海底の温度が低いために生物の活動が低下するためと思われる。浅い海底においては温度もあまり下がらず有機物の十分な分解がなされるが、深海に沈んだ有機物の分解は極めて遅い。

もう一つの問題点は、分解された有機物が海洋表面に運ばれる速度が遅いことである。海水の大循環において鉛直方向の循環も存在するが、この循環速度は遅い。また海底に堆積した有機物は重いために海水の鉛直方向の循環によって浮上しない。

未来のビジョン

二酸化炭素不足

海洋における植物プランクトンの増殖制限要素を人間の手で取り除くことによって、地球における生物量を大幅に増やすことが出来る。つまり、生きている炭素を増やし、ガイアの増殖を実現することが出来る。しかし、そうなると今度は二酸化炭素の不足が制限となるであろう。

二酸化炭素は大気中にわずか400PPM程度しか存在しないのである。海洋が光合成生物で満ち溢れるにはあまりにも少ない。ガイア理論に基づいて生きている炭素を増やすという目的には、より多くの二酸化炭素が必要である。

そこで地球表面における炭素循環をもう一度見直すと、炭素循環の淀みが他にもあることがわかる。それは石油や石炭などの有機化合物である。これらは、本来の炭素循環からすれば、分解者によって分解されるべきものであったが、石油や石炭が形成された当時の地球環境では分解者が十分に発達していなかったために、分解されないまま炭素循環の淀みとなってしまったのである。

現在の人類は石炭や石油を燃やして二酸化炭素を排出している。これは死んだ有機物を分解して二酸化炭素を排出しているという分解者の行為に他ならない。かつて適切な分解者が存在しなかったために、炭素循環の淀みとなってしまった石炭や石油を燃焼することによって、淀みを解決することこそ、ガイアに対する人類の最大の貢献となるのではないだろうか。

紅い海

現在の海は青い。水は赤外線を吸収するが、吸収帯域の一部は可視赤色に及んでいる。このため水の色は赤の補色の青に見えるのである。水中において赤色の帯域は水に吸収されてしまうので、その帯域を避けて光を使用する方が効率が良い。

海洋における植物プランクトンとしては紅藻や褐藻がある。赤潮の色はこれらの藻類が原因である。赤潮は生態系のバランスが崩れた状態であるが、生体に必要な微量元素が海洋に散布され、植物プランクトンや動物プランクトンが大量に生息するようになれば、生態系のパランスが保たれたままで紅藻や褐藻の増殖によって海は赤く染まるだろう。

場合によっては、海は黒く染まるかも知れない。利用可能な可視光の波長がすべて光合成に利用されるならば、目に見える色はなく、黒か灰色の海になるだろう。海の表面は波があるので、水面の角度による太陽光の反射や飛沫の反射の部分だけが白く見えるモノクロの海になるかも知れない。

地球が青く見えるのは表面の多くを占める海が青いからであり、海が赤くなれば地球は赤い星になるだろう。