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ネギ式

適当に生きるおっさんのブログ

読書:善の研究

岩波文庫の「善の研究西田幾多郎、をようやく読み終わった。まあ、目を通したというのが正しいかも。

で、その感想なのだが、どう考えてもエラソーなのである、俺が。でも、エラソーに書く以外に書きようもないというか、他の書き方が出来るほど器用ではないので、そのままエラソーに書く。まあね、エラソーに書くと恥を掻きやすいんですよ、それまた仕方のないことなのであった。

この本の存在を知ったのがいつなのかもう思い出せないのだが、ずっと「禅の研究」だと思っていた。だいたい文字情報として知ったと思うので、ちゃんと「善の研究」という題名を見ていたはずなのだが、一度頭のなかで「ぜんのけんきゅう」として記憶されると、いつの間にか「禅の研究」になっていたのである。だって、禅について研究するのはまあわかるけど、善の研究って何?って気がするし。

しかし、意外にも、この本と禅との関係は深いのであった。私の見る限りでは、非常に深い関係がある。ところで、まず一発エラソーなことを言っておくと、この本、読む必要ないです。この思想は歴史的価値しかないと思う。歴史的価値は確かにある。あと「善の研究」を読んだと威張れる。でも、昔ならともかく、現代において「善の研究」を読んだと言っても、「ああ、そう」と受け流されるのとオチだと思う。

じゃあ、時間の無駄かというと、そうとも言い切れない。この本は独立した思想の本なので、この本を理解するためには、あの本を読んでいなければならないということがない。この本だけ読めばいいので効率的だ。ギリシャ哲学まで遡って何十冊も哲学書を読む必要がないのは素晴らしいことだ。

内容についていうと、アレだよね、Wikipediaでいうところの「独自研究」ってやつ。あるいは「自分の頭で考えてみた」というような内容である。こんなこと書くと、お前のブログはどうなんだと言われそうで、そして何も言い返せないのだが、読んでそう思ったんだから仕方がない。

純粋経験

純粋経験」というのが、第一章のタイトルでもあり、この本の思索の方法でもある。のだが、これは直接見たり聞いたりしたことという意味ではなく、また論理的思考を重ねるという意味でもない。じゃあ、なんだというと、直接知るということらしい。啓示宗教なら、神の啓示というのがそれに当たるだろう。

しかし、神の啓示とは書いてないし、実際そうではないようだ。こうだとも書いてないけれど、どうも座禅して直接知った真理ということのようである。著者がこの本の思想を発達させる上で何度も座禅していると書かれているので。まあ、大雑把に言うと、「著者が座禅して悟ったこと」ということであろう。

禅は仏教の一派、小乗仏教だが、禅僧が修行して悟り、そして解脱することを目的としている(と俺は思う)。多くの宗教では宗教的真実があり、それを多くの人に広め、宗教的に正しい生活をすることを目指す(というように俺は理解している)。

しかし、いくら宗教的真実を説いて聞かせても、聞く側に聞く気がなければ、どんな真実も届かない。禅というのは聞き手、弟子、修行僧の発見的理解に重点を置いている。そして師匠や宗教的指導者が悟った内容を言葉で伝えることの比重は少ない。弟子が悟った真実は、師匠や仏陀が悟った真実の一部であると考えられるからである。真実はひとつなので正しく悟った以上は必ず同じ真実にたどり着くはずだからである。

師匠と弟子に限定すれば、その悟りはどちらも仏陀には及ばないと考えられるので、師匠と弟子の悟った真実に多少の齟齬があることもあるかも知れないが、そうだとしても弟子の悟りは尊重されるはずだ。弟子の悟りが師匠の悟りに含まれない場合でも、両者の悟った真実はどちらも仏陀の悟った真実に含まれると考えられる。

宗教的に考えるとこんな感じになるが、非宗教的に考えると、まあ、座禅してどんな真実(と思うもの)を思いつこうが、どうでもよいということになろう。とはいえ、それまでの仏教思想とあまりにも違うことだった場合は、おそらく間違った悟りとして師匠から非難されるのだろう。

というようなことが著者の純粋経験(だと俺は思う)なのだが、これだけだとあまりに主観的、あるいは唯我論的という批判を受けるであろう。

実在

そこで出てくるのが統一という概念である。本文中には一度しか出てこないが「アートマンブラフマンの同一性」によって主観と客観は統一される。だけでなく、私と人類も統一される。まあ、なんというか、真実はひとつなので、自分を深く掘っていくと家族、国家、人類と根源に遡っていくことが出来るというわけである。あー、なんかちょっと違うな。でもまあ、だいたいこんな感じ。座禅している自分の意識がまずあって、それに知覚される物質的存在がある。他者の意識は自分の意識と違うものではあるが、それらを統一するものが存在する。

ちょい飛ばしていくと、善とは本来の自分であること。これもちょっと俺の言葉が足りない。仏教では万物に仏性ありという。本来の自分というのは理想の自分、あるいは統一が達成された自分である。その統一というのは、別れてきた道筋の逆なので、家族、国家、人類との統一である。ただし、統一を妨げるものが葛藤となるわけだが、葛藤が悪というわけではなくて、葛藤を越えて統一する/されるという活動が善であるという。善は状態ではなくて活動であると。

雑な感想

まあ、雑な読み込みなので、違うと言われれば違うのかもしれない。ともあれ、一人の頭で考えたことの範囲を出ないという問題点がある。まあ、だから先行文献を読み込まなくても済むわけなんだけど。

禅なら、悟ることが一つの目的なので、悟った内容は割りとどうでもいいというか、どうせ釈迦の悟りの一部に過ぎないわけだし、先人が既に悟っていることでもあるし、気にする必要はないと思う。弟子に伝えるにしても、弟子は弟子で悟るわけだからね。不立文字であり以心伝心なので、内容はそんなに気にしなくていいのだ。というのが俺の勝手な禅の理解なのである。

しかし、哲学書として文字で出版されるとなると、これを読んで勝手に悟れというわけにはいかないだろう。というか、西洋哲学の流れに対抗したり、その一流派となるだけの力はないと思うのである。

というエラソーな感想であった。

 

善の研究 (1979年) (岩波文庫)

善の研究 (1979年) (岩波文庫)