ネギ式

適当に生きるおっさんのブログ

予言:やがて健康ブログで記事が引用されるであろう。

仮説は棄却されたのだ! だが、この記事はやがて健康系のブログで引用されるだろう。プラスチックの有害性を示す記事として。

wired.jp棄却された仮説を記事にしたのは、やはりその内容が読者の注目を集めると考えたからだろう。それは原文の記者もそう考えたのだろうし、日本語に翻訳した人もそう考えたのではないだろうか。

私も記事タイトルに釣られて読んだわけだから、その記者の考えは正しかったと言えると思う。もちろん、この記事では仮説を裏付けることは出来なかったと書かれているわけで、科学的に正しい記事になっている。

しかし、真偽などどうでもよく、人の不安を煽って金儲けを企むような人がやっている健康系のブログは少なくないのである。そういう人にとっては格好のネタであろう。

なんだかもう目に見えるようだ。

 

 

アニメ感想:ディーふらぐ!

2014年冬アニメ。dアニメストアで配信されたので見た。

2017夏アニメでは「ゲーマーズ」「New Game」とゲーム関連を見ているのだが、「ディーふらぐ!」もゲーム制作部(仮)の話である。

 といっても、部活ものラブコメという方が近いかも知れないし、ラブコメにしてはコメディ成分がかなり強い。ちなみに、私はコメディ成分の強いラブコメは好きです。

で、このゲーム制作部(仮)も部活と言ってもゲームばかりしているというぐだぐだ部活なのだが、それにも拘わらずゲームも制作しているというやらないようで、ちゃんとやっているところもいい。しかも、作っているのはコンピュータゲームではなくアナログゲームなのだ。それがいい。

最初はコンピュータゲームを作っているのかと思って、文化祭で正式なゲーム制作部と勝負をするというときに、そんな短期間でゲームが作れるのかと思ったが、アナログゲームというか遊びだったのですごく現実的だと思った。まあ、概ね現実離れしたコメディなんだけど、ゲーム制作部の作るゲームは妙に実現可能っぽい。

そしてヒロインの芦花がかわいい。ツンデレとかではなくて普通のラブコメ的な(いや普通じゃないか)、主人公の男が好きだけど、それとは別に自己主張は通すところがいい。そんな芦花の作ったゲームが「宇宙エロ本争奪ゲーム」である。最初はネタでタイトルだけかと思ったが、ちゃんとゲーム内容も登場した。

 

ミンナノナマエヲイレテクダサイ

ミンナノナマエヲイレテクダサイ

 

ネタバレ読書感想:宇宙に「終わり」はあるのか

十年に一度くらいは最新宇宙論を読んで知識を更新したい。

 これは2017年発行であり、まあ最新の宇宙論に基づく過去から未来までの宇宙の歴史(の概観)である。

で、ネタばらしをして結論を言うと「終わり」はあり、それはある種の熱死である。ただし、より徹底した熱死である。(うーむ、これはまたひどいネタバラシであることよ)

とは言え、素人の私の書くことなど当てにならないのだから、気になる人はアフィリンクをクリックして原本に当たるしかあるまい。うひひひひ。実は本の冒頭に2ページで語る宇宙全史という項目があるので、そこを読めば概略はわかるのだが、書き写すの面倒だし、著作権の問題をかすめるのもいやだし、自分の頭を整理するためにも、全体を読んで理解した(と思っている)概要を書いてみよう。

まず、最近発行されたからと言って最新の宇宙論に基づくということにはならないのだが、この本が最近の宇宙論の流れにあることは次の点からも分かる。それは、この本では「超弦理論」は出てこないという点である。そう「超弦理論」はもう流行らないのだ。

ところで、日本仏教はいろいろな点で問題があると思うのだが、「無常観」という点では優れていると思っている。まあ、仏教側の成果というより、文学の成果という気もするが。もっとも、宇宙の終わりはほぼ定常状態になるわけだが、それが無常観と実に心地よく一致するのは不思議な事である。

ただ、最新宇宙論と言っても、肝心の暗黒エネルギーが全然分かっていないので仮説に過ぎない。暗黒エネルギーが時間とともに増大するか、減少するか、時間変化しないのかによって宇宙の運命は変わるのである。増大するという根拠も減少するという根拠もないので変わらないという仮説がまあ妥当なものとして採用されているが、この辺は将来変わる可能性があるかも知れない。(暗黒エネルギーの研究がそんなに進展しないという可能性もあると私は思う)。

まあ、どの場合でも宇宙の終わりはあるということになるんだけど。

まず、観測から宇宙は初期にインフレ膨張した後、一時的に膨張が減速した時期があり、現在は再び加速膨張の時期に入っていることが分かっている。で、暗黒エネルギーが時間変化しない場合、宇宙の膨張は加速を続ける。

最終的には、陽子崩壊とブラックホールの蒸発によって殆どの素粒子がなくなり、光子と電子と陽電子が残る。光子は宇宙の膨張によって赤方偏移し極めてぼんやりとした存在になる。電子と陽電子は宇宙の膨張の影響もあって出会いがなくなり対消滅できない。まあ対消滅しても光子になるだけだけど。

まあ、それ以前に地球は太陽に焼かれる。その少し後で、天の川銀河アンドロメダ銀河の衝突合体が起こり、銀河のハローが失われ、新しい星の生成がほとんどなくなる。少子化である。宇宙全体でも銀河の合体や高齢化で新しい星がだんだん生まれなくなる。

古い星はブラックホールになったり、中性子星になったり、あるいは単に死んだ星になったりする。そういう星の間の重力による作用によって一部の星は角運動量を貰って銀河から外に飛び出し、それ以外の星はだんだん中心部に集まって、銀河中心のブラックホールに飲み込まれる。降着円盤とかあっても結局はブラックホールに落ちる。そして、ブラックホールとその影響を逃れた死んだ星が残る。しかしブラックホールの蒸発と陽子崩壊によってそれらも素粒子になり、素粒子半減期を繰り返していくと結局は光子になるか、電子か陽電子になるらしい。これらは安定しているので勝手に崩壊しない。そして宇宙の膨張によって出会いが少ないので相互作用して消滅することもない。

こういう情景は、私には無常観とうまく合う宇宙の終末であり、怖ろしいとかいう気持ちはない。無常である。無常観あふれる定常状態である。まあそうなるわなという印象である。

そういう状態になるのは、サブタイトルにもあるけどだいたい「10の100乗年後」まあだいたいだから、年でなく秒で表してもそんなに変わらない。「10の107乗秒後」などという程の精度はないはずなので、やはりだいたい「10の100乗秒後」ということになるだろう。そんなかんじのスケール。

そんなスケール感からすると、アンドロメダ銀河と天の川銀河の衝突合体はまもなく起こる大事件である。人類文明が無茶苦茶頑張って生き延びれば、この大事件を目撃できる可能性がないこともないような気がしないこともない。

ストリング理論は科学か―現代物理学と数学

ストリング理論は科学か―現代物理学と数学

 

おまけ: (超)弦理論に対する批判本。既に10年前の本である。素人向けにはまだまだ人気があるようだが、(超)弦理論に対する批判はかなり大きくなっているようだ。まあ、物理学の役に立たないからね。使えない理論というもっぱらの評判である。(個人の印象です)

職業訓練について

職業訓練は重要である。

義務教育というものは、特定の職業を前提としない基礎能力訓練であると考えられる。一方、職業訓練は、特定の職業に特殊化した訓練と言えるだろう。

ここで問題となるのは、職業によって労働条件や収入が大きく異るということである。また、訓練内容の厳しさや訓練期間の長さ、訓練費用なども異なる。また、場合によっては訓練失敗という状況もあり得る。芸術家や棋士などは厳しい訓練にも拘わらずプロになれないこともあるのだ。

さて、西暦2017年の現行日本国憲法によれば、国民には職業選択の自由がある。職業選択の自由というのは特定の職業に就くことを強制されないことであって、能力もないのに好き勝手な職業に就けるという意味ではない。ストリートミュージシャンをやってみることは出来るが、勝手に医者を名乗って治療行為をすることは出来ない。国民でないから職業選択の自由がない人もいるし、実質的に職業選択の自由がない国民も存在するが、その数はとりわけ多いというほどでもない。

ここで、どういう職業を目指してどういう職業訓練を受けるかという選択が必要になる。これは人生においてなかなか重要な選択である。一般的には楽で稼げると思われる職業は、訓練に時間と金と苦労を伴うものであり、更に才能や努力の欠如によっては、訓練自体が無駄になる可能性もあるからである。

だからといって、ほとんど訓練を必要としないような職業は、(現代では少なくなりつつあるが、)収入も少なく、社会的地位も低く、自己肯定感も少ないであろう。職業訓練というのは個人にとっては最大の自己への投資であり、判断力が試される状況なのである。

しかし、個人の立場を離れて、社会的な見地からすれば、可能な労働力を遊ばせておく手はないので、訓練されていない労働力をその分安く買って、訓練を施して使用するということが考えられる。この場合、訓練という投資をした側が、投資の成果を回収することになるのは資本主義的には当然の成り行きである。

また、別の見方をすると、職業ごとに必要な人数の範囲というものあるわけだが、当然のように、割のよいと思われる職業は人気が高く、割に合わないと考えられる職業は人気が低い。この場合、人気が低い職業は概ね収入も低いので、資本主義的な市場による調整機能はうまく働かない(かも知れない/こともある)。

そういう資本主義的な市場がうまく働かない場合の調整機能は、国家の役割のひとつであるとも考えられる。この場合、国が多少の補助金なりを出して後は資本主義市場に任せるという方法もあるし、国が直接的に職業訓練事業を行うこともあるだろう。どちらの場合であっても、調整機能として行う以上は、人気がないが需要がある(が収入は低い)職業の訓練ということになるはずだ。

あなたが自分で職業(と職業訓練)を選ぶという投資判断をしなければ、他人や国家が適当な職業訓練をしてくれるかも知れないが、それはそうする側の利益のためであって、あなたの幸福のためではない。

え、俺はどうやって職業を選んだかって?

まだ選んでないような気もするし、単に脱走して来て適当な仕事をしていただけのような気もする。

キーボード入力の快感

実はREAL FORCE派なのである。

そして、前から欲しいと思っていた静音タイプの物を買ったのである。

 これね。その前に使っていたのも同じテンキーレスで静音が付かないやつ。まあ、そっちも特に問題はなかったのだが、職場に置くことにしたので。いや、新しいの買ったから古いのを職場に置いたのか、そのあたりはどちらともつかない。

で、静音タイプだとキータッチが違って合わないかもと思ったが、むしろこっちの方が前よりいい感じだ。古くなってキータッチが変わったというのでなければ、(その可能性も少しはあるかも)、断然こっち(静音タイプ)の方がお勧めである。

その割にマウスは安いのを使っているのだが、それはマウスのクリック部やホイールやらが壊れてしまうから。消耗品と思うことにして安いのを使っているのだ。

さて、こうやってタイプしていても実に気持ちがいいのである。快感と言ってもいい。REAL FORCE 以前で、すごく快感を感じたキーボードがあって、それはもうよく覚えていないのだが、98互換機時代のEPSON のノートパソコンだったと思う。それが気持ちよくて、おっぱいキーボードと密かに呼んでいたのである。ノートだからそんなにキーストロークは深くないのだけれど、この柔らかさというかなんというか感触が今思えば、REAL FORCEに似ていたのだ。

そして、それ以前のキーボードで快感を覚えたのは、なんと言っても富士通OASYSである。OASYSの場合は、キータッチがよいのではなくて、親指シフトで入力するときのリズム感というかテンポ感というか、その感覚がなんとも快感なのであった。ちなみにその頃から同人小説を書いていたので、ワープロ専用機を買って持っていたのである。OASYS先生というやつ。

当時もプログラマーをしていたので、パソコンも使うしOASYS先生も使うという使い方をしていたのであるが、もう入力の気持ちよさでは断然親指シフトなのだが、一度入力した文章を編集する際にはパソコンの方がずっと使いやすかった。しかし、データの互換性などはなかったので、編集はパソコンでというわけにもいかないのであった。

結局はプログラムの入力と同じ方法で日本語も入力するようにした方がいいと思ったのもあり、またワープロ専用機自体が消えていく運命にあったため、そしてOASYS先生がワープロ専用機の中でも低価格機であり機能もやや少なめだったため、お別れすることになってしまったのであるが。

 その後、「クムドールの剣」でタッチタイプを学び直したので、今からまた親指シフトに戻ろうという気はないのである。

 

 ああ、これは1994年のmac 用のやつだ。

ちなみに、パソコンのキーボードのカーソル移動キーでゲームをしていた私は、ゲームパッドを初めて使ったときもこれはすごいと感動したものである。

わかっちゃいるけどやめられない

子供の頃からの無鉄砲で……じゃなかった、注意力散漫でテストの時にはケアレスミスの連発。先生から何度もケアレスミスが多すぎると注意されたが、本質は分かっている、単なるケアレスでテストの点が取れていないだけだから気にしない。テストの点が重要ではないのだとかいう理屈をつけて一向に直そうとしなかったのである。

わかっちゃいるけどやめられない。

そもそも止める気すらない。ってことは分かってないということかもしれない。だいたい問題を解いた時点で満足してしまって、検算しようという気にならないんですよね。検算なんて面倒なだけだし、計算ミスが多いということは、検算でも計算ミスをするのでつまり検算の検算も必要になるわけで、面倒なことこの上ない。

そんな人間がプログラマになるとどうなるかというと、バグの連発ですよ。さすがに重要なバグを出した後はしばらく凹むのだが、まあすぐに忘れてしまう。

でも、テストファーストとかいう概念が入ってきて、後からテストプログラムを作るのではなく、先に作るなら面倒ではないというかまだ気力があるというか、達成感がないので手が抜けないというか、まあテストをするようにはなったのです。いや、もちろん、業務上必要なテストは常にしてましたよ。

やがて、というか、なぜか、前もって結果が分からないような実験的なプログラムを作るようになると、まず実験してみてということで先にテストを書かなくなり、おお実験がうまくいったさてリリース用プログラムを書くかという気持ちになり、コンパイルが通ると一瞬でも早くリリースしようと気が焦り、ああ、そしてリリース後にバグが発覚することになるのです。

いや、これも歳のせいで、歳を取ると注意力が低下してのう。となんでも歳のせいにする老人力を発揮して責任回避してしまうし、どんなプログラムにもバグはあるというのも、真実ではあるものの、簡単なテストで回避できるバグを放置する理由にはならないのだ。

まあ、バグを出すたびに反省していたらプログラマはやってられないので、まったく反省しないのではあるが。専用テスターか、レビューワーを付けて欲しいくらいだが、むしろ俺がレビューする側だろうという気もするが、代わりにプログラムを作ってくれる人もいないし、コードレビューする人もいない1人開発体制ではバグが出るのは仕方がない。

わかっちゃいるけどやめられない。

スーダラ節

スーダラ節

 

 

漫画とアニメの感想:この世界の片隅に(ヴォネガットとの対比とか)

アニメを見てから、漫画を読んで、またアニメを見た。

漫画は白黒なので、最初漫画を読んだ時は浪のうさぎも鉛筆で描いたのかと思ったけど、よく見たら筆で描いていた。でもアニメの方がずっと絵筆で描いた感じがする。

なんというか、漫画のとおりに、そして背景などはより詳しくアニメにしている。でも漫画にしかないエピソードもあって、それでも非常に漫画に忠実にアニメにしているという気がした。

そして二度目のアニメを見ると、絵に色がついていることにあらためて気がついたりする。そして漫画のとおりだと確認しながら見てしまうわけだが、アニメにないエピソードもいつの間にか見過ごしたかというような印象を持った。

 たいていのアニメ化は原作を越えられないのだが、この作品について言えば、アニメはよい。そして原作もよい。どちらも素晴らしい。アニメにはアニメ化によって付け加えられた良さがあり、原作にはマンガならではの表現とアニメで削られたエピソードがある。

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

 

 

さて、これは空爆の話なのであるが、SFファン的には空爆といえば、スローターハウス5ドレスデン爆撃である。ヴォネガットドレスデン爆撃の無意味さ、味方に爆撃された不条理さを強く感じてスローターハウス5を書いたようだが、呉爆撃はドレスデン爆撃に比べれば爆撃自体の目的ははっきりしている。だからといって空爆された側が納得するかというとそんなことはない。

この作品を鑑賞したあとでは、その点でヴォネガットの視点はまだ甘かったのではないかと思うのである。外国人が兵役で行った外国で味方に爆撃されたという不条理と、ある国でふつうに生活していて爆撃されたということにどれだけの違いがあるだろうか。

また、この作品は原作が漫画であり、ユーモアがある。それは主にすずさんの性格によるものだけれど、単に抜けているだけの女性ではなくて、生活に根ざしたところに笑いがある。その辺もヴォネガットのユーモアとは違うけれども決して劣らないユーモアになっている。

そうすると、ヴォネガットのユーモアやSF的な視点は、やはり男性のものではないかと思えてくる。この作品はそうではない、まあ、俺としてはヴォネガット越えたと思えるけれど、単純に女性的ということでもないと思う。なんというか、社会を変えるよりもその時の社会に従って生きるしかない人々の立場というのだろうか。

 

 

空爆のSFというと、ロンドン空襲を扱ったコニー・ウィリスの「ブラックアウト」もあり、あれも主人公が女性なのだが、これまた違うものである。まあ、違うのは当たり前と言えば当たり前だけど。ウィリスはエンタメ色が強いし、そして何より、どちらも読者は戦争の結果を知っているが、その結果が日本とイギリスでは逆だから。

 

 というわけで「この世界の片隅に」は世界的な傑作なのである。